みなさん、こんにちは。
株式会社さびらの野添です。
去った9月13日に、教育旅行チームで渡嘉敷島へ行ってきました。
その理由は、さかのぼること数ヶ月前。弊社に届いた渡嘉敷島在住の冨里さんという方からの電話がきっかけでした。
「私は1歳の時、沖縄戦時に渡嘉敷島であった集団自決を体験した。戦争の記憶を残すため平和学習を行いたいが、どうしたらよいか相談に乗ってほしい」
沖縄戦から79年。年々、体験者は減り続け、直接の声が聞けるのはもう限られた時間しかない。我々は渡嘉敷島で起こった沖縄戦の実相を学ぶべく、冨里さんのもとへ訪れることにしました。
集団自決とは
太平洋戦争時、沖縄やサイパンでは避難する住民同士でお互いを手にかける「集団自決」が行われました。我々が訪れた渡嘉敷島でも、沖縄戦時に300人以上の住民が亡くなったとされる集団自決が行われました。
那覇から渡嘉敷島へ
那覇・泊港からフェリーで1時間。慶良間諸島の中で一番大きな島が渡嘉敷島。「沖縄島から、気軽に行ける離島」として観光客からも人気を博しています。
ケラマブルーと表される透明度の高い海の綺麗さも有名で、この日のフェリーも機材を手にしたダイビング目的であろう世界中からの観光客で溢れていました。
渡嘉敷港に着くと、さっそく出迎えてくれて、そのまま手紙をくれた経緯についてお話ししてくれました。

集団自決の生き残りである冨里さんですが、渡嘉敷島の戦争の歴史には大人になるまで「全く興味がなかった」そうです。ですが、戦後40年経ったころに、地元新聞社が見つけ出した沖縄戦時に米軍が撮った「自決現場から、自分が保護された写真」に出会ったことがきっかけで、沖縄戦について向き合うようになったそうです。

冨里さんと沖縄戦
渡嘉敷島出身の両親を持つ冨里さんは、父親の仕事の関係で移り住んだ南洋諸島トノアス島(通称:夏島)で1944年に生まれました。生まれてすぐに、南洋初頭でも戦争の影響が色濃く出始め、父親を島に残して、残りの家族で渡嘉敷島に移り住んだそうです。
しかし、用意された2隻の船のうち、家族に割り当てられたのは一番古い木造船。
母親は「これでは敵に攻撃される。無事に渡嘉敷島に着けないかもしれない」と思いましたが、攻撃されたのはもう片方の船。ほぼ全滅だったそうです。
無事に渡嘉敷島に到着した後も、戦争の影は冨里さんたちを追いかけてきます。
日本軍は、沖縄本島に上陸してくる米軍に対して奇襲攻撃をかけるため、海上特攻艇 200 隻をしのばせていました。ところが、予想に反して米軍の攻略部隊は、1945年3月23日、数百の艦艇で慶良間諸島に艦砲射撃や空襲を行い、27日には渡嘉敷島にも上陸しました。

当時の渡嘉敷島にいた日本軍部隊で、戦闘能力のある部隊はすでに沖縄島へと再配備されており、島にまともに米軍と戦える部隊はいませんでした。
物量に劣る日本軍と住民は、山の中に逃げこみましたが、28日の夜、パニックに陥った島民は防衛隊から北山への集合命令をうけます。あちこちから「天皇陛下、万歳」という声が上がり、手榴弾を爆発させたり、刃物で斬りつけ合うなどして住民同士での、集団自決が行われました。
当時1歳だった冨里さんは、母親や姉など家族全員で集合場所へ向かいました。集合場所に来た時に、近くで爆発した手榴弾の破片が母親と叔母に直撃。即死だったそうです。冨里さんと姉は軽い怪我は負ったものの、命に別状はありませんでした。ですが、あまりにも幼すぎたため現場から離れることもできず、数日自決現場でうずくまっていたそうです。その後、駆けつけた米軍に保護されて、収容所に送られ、冨里さんの戦後が始まったそうです。

当時の記憶がない冨里さんは、姉から渡嘉敷島での戦争や、自決の様子の話を聞きます。
しかし、戦後すぐはまだ幼すぎた、そして高校になったら渡嘉敷島を離れ、沖縄島へ移り住んだこともあり、地元の歴史については考えることはなかったと言います。
ですが、先述した戦後40年が過ぎた頃に、突如自分の目の前に現れた米軍が収めた「自決現場から、自分が保護された写真」に出会ったことで、突如沖縄戦が「自分ごと」としてつながった感覚を受けます。
集団自決、そして南洋諸島から引き上げる際にも奇跡的に助かったという「2度も自分が生かされた理由はなんなのか」という問いに対して、戦後40年から今にかけて向き合い続けていると話す冨里さん。
今の渡嘉敷島は、県内外から移住してきた住民も多く、また学校でも時間を割いて平和学習の授業があるわけではないそうです。
そんな中でも、冨里さんは「平和学習のやり方を見直す時期に来ているんじゃないか」と考えています。
「戦争は明日すぐに来るものではない。ルールが決められ、戦争に対して疑うことがない社会の空気感が時間をかけて作られた先に戦争がやってくる」
過去にあった戦争を事例に、戦争が作られるまでの道のり、そして戦争が起こったら街や、島や、そこに住む人たちはどうなってしまうのか。過去の歴史を学びながら、再び過ちを犯さないために未来を作っていく私たちは何を考え、どう行動に移せばいいのかを考える必要があるよね。そのためにお互い協力しあいながら、平和を考える時間を作っていこうね、という言葉を締めに、冨里さんとの対話の時間は終了しました。
普段、沖縄島を中心とした戦跡を案内している私たちですが、改めて沖縄戦は「沖縄全体で行われた戦争」ということを、痛感しました。そして、各地によってその特徴の違いがあり、さまざまな沖縄戦の顔があることも再認識しました。
今回できた渡嘉敷島の皆さんとの繋がりは、これからも保ち続け、私たちのツアー行程にも組み込んでいきたいと考えています。 (まずは少人数のツアーから募集してみましょうかね!興味がある方はご一報ください!)

※本記事(冨里さんに関する内容・写真)の無断掲載はご遠慮ください。
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